無為自然。好きなことと諦めが同居した自然体



仕事中に「あなたは自然体ですね」と言われたことがあります。自分にとっては嬉しい言葉です。昔から老子にある「無為自然」という言葉、、というかこの言葉に勝手に抱いている感覚が好きでした。だからそう見られたことは嬉しかった。

自分勝手な無為自然

一般的な無為自然は、人為的なものを排除して自然のままであれといった感じの教えだったと認識しています。でもそんな堅い感じではなくて、人間社会も自然の1つとして、その社会で暮らす1人の人として、あるがままに生きるのが自然だよねといった勝手な解釈。

だから人としての欲望もたっぷりあるし、でも欲望のままに生きられるわけでもないので、ある程度の諦めもある。自分にとっての自然体というのは、好きなことをしたいという欲求と、他人に期待しない諦めみたいなものが混ざって生まれてるように感じています。

当たり前ですが、他人は自分とは違う考えや価値観を持っているので、むやみにぶつかっても仕方ない。だから自分の好きなことをやって、受け入れてくれる人がいればラッキー。受け入れてくれなかったらそりゃ仕方ない。みたいな。

ここでいう他人が先の言葉の自然と同じに感じてるのかも。イヤなことがあっても、それが自然相手なら怒鳴り散らす人は居ないように、自分も人に対して怒鳴り散らすようなことがない。自然というどうしようもない存在のに対する諦めみたいなものを人にも当てはめてるような。

自然は常に変化する

もちろん現実は、意見があわずぶつかることは多々あるし、以外とそれも嫌いではなくて必要だと思ってたりもします。でもぶつかった結果はサラッと流す。良くなればラッキー。悪ければまあ仕方ない。そう割り切れるものでもないけど、そう思い込むようにしてる(笑)

いつからかそんな価値観で生きるようになったから、この人は私のことを自然体と言ったのかなー。

けど自然は常に変化するもの。だから未来の自分は全く違う価値観になってるかもしれません。むしろ今はこの価値観を変えなきゃと思ってたり。でもやっぱり変わらないかも。そんな姿を見る他人は、この人ブレてると思うかもしれないけど、まあそれでいい。

書きたいことを書いてみたけど、何が言いたいのか自分でもよくわからなくなってきた(笑)けど、この伝えたいけどうまく伝えられない感覚は好きです。まとまりませんが自分にとっての無為自然とはそういうものなんだなーと思ったことでした。

もう読んだのは随分前なので内容ほとんど忘れました(苦笑)今読み返すと新たな発見がありそうです。

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